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時空を超えて、晴れやか

2009年05月24日 21:09

dechirico_lovesongbig.jpg

こんにちは。

「夢の創造―ジョルジョ・デ・キリコ回顧展」(パリ市立近代美術館)を観てきました。

シュルレアリスムに多大な影響を与え、ピカソをも震撼させたといわれるデ・キリコですが、
パリでの展覧会は、意外なことに、25年ぶりだそうです。

上の絵は、「愛の歌」と題されていて、まあ、力いっぱい「シュール」ですね。
そもそも置かれているオブジェが変だし、置かれている場所も殺風景だし、
彫刻の頭とか手袋が貼り付けられている板(?)も遠近感がないし、
向こう側には煙突の煙らしきモヤモヤが見きれているし、
この画像ではよく見えないけれど、彫刻の頭の下に細いピンが挿してあるのが無駄な感じだし、
手前の緑の球体は、異様なほど存在感があるのに、何だか分からないし。
なんか、むやみに晴れてるし。・・・。

見知らぬ土地を歩いているような不安と、
怖い場所ではなさそうだなという妙な安心感。
ふと、そんな自分の表情が、
彫刻の頭部として画中の板に張り付けられてしまったような錯覚に襲われます。

さて、この不思議な画風は「形而上学的絵画」と呼ばれたりもします。
そもそもこの言葉は、詩人のアポリネールが、
デ・キリコの絵も発表された1912年のサロン・ドートンヌ(秋の展覧会)の諸作品を指して、
用いたのが始まりだったようですが、
今ではすっかり、デ・キリコの画風を指す言葉として定着しています。

形而上学的、というと、何か小難しい理論が絵の背景にあるのか、面倒くさいな、
と思ってしまいますが、たぶん、事態はその逆で、
どうやって理屈をこねくり回しても、なんか掴みきれない、「謎」が残る、
そういう絵を、デ・キリコは目指したんじゃないかと思います。

「形而上学的」という言葉は、おそらく、目に見える世界を超えた、
目に見えない物の世界を指し示していて、だからこそ、
デ・キリコの絵も、日常的な感覚からすれば、
歪んでいて、なんだか無意味な感じすらするわけですが、
重要なのは、彼の描く風景が、変な言い方ですが、
「非現実的だけどリアル」だ、ということだと思います。もっと言えば、
「現実って、みんなが思っているほど型にハマっていないよ」ってことだと思います。

「大地の上。太陽の下を歩く人間の影の中には、古今のいかなる宗教よりも、もっと多くの謎がある」(ジョルジョ・デ・キリコ)

このように「リアルな不条理」を描いたデ・キリコの画家人生は、
「形而上学的絵画」の名声にもかかわらず、意外なほどに紆余曲折していて、
それでも、敬愛するニーチェの教説「永遠回帰」をなぞるかのように、
最終的には、最初の風景に戻っていきます。

シュルレアリスム運動の首領アンドレ・ブルトンに絶賛され、見捨てられ、
「形而上学的絵画」から距離をとり、古典絵画のさまざまな技法を吸収し、
数多くの自画像を描き、まるで、絵を描くことで自分のルーツを確かめるように、
反現代的な絵を書き連ねていった揚句、
「形而上学的絵画」の世界に、帰還を果たします。

432_37_Retour-dUlysse_P075-CHIRICOmd.jpg
ざぶーん。「ユリシーズの帰還」。

「帰還」と題されている以上、どこかからの旅の帰りなのでしょうが、
これほど「移動」を感じさせない旅についての絵は見たことがありません。
にもかかわらず、「どこにも行けない」的な焦燥感や悲壮感はみじんもなく、
ただただ、あっけらかんと、漕いでいます。ざぶーん。

面白いのは、この時期に、デ・キリコは初期の作品を、
そのまま、まるで自分の絵を模写するかのように、「再生産」していることです。
自分の作品を自分のものではないと主張して裁判沙汰になったことすらあるそうで、
こうなると、もう、人生全体が壮大な「謎」。

どれが彼の絵で、どれが彼の絵じゃないか分からずに、
デ・キリコの絵を理解することなんてできるのか。
何十年も経った後に、まったく同じ絵を描いているこの人物は、
ほんとうにデ・キリコという同一人物なのか。・・・。

ピカソのように、さまざまなスタイルを作り上げては乗り越えていった画家は、
残された作品群の背後に、「ピカソ」という巨大な存在を感じさせるようで、
その意味では、まっとうで「偉大な」画家だと言いやすい側面があるかと思いますが、
デ・キリコのように、初期に描いた絵とまったく同じ絵を晩年に描くような画家は、
(他にそんな画家がいるのかどうか、分かりませんが)、
あらゆる時期を貫いて変わらぬ画家のアイデンティティみたいなものを、
根底的に否定しているようで、
「デ・キリコはすごい」とか言ってしまうことに、気まずい感じを覚えさせます。

というより、「『絵』を見ているんだから、『画家』の話はよそうよ」みたいな、
すごく新鮮で楽な気持ちになります。

日常的な時間を超えた形而上学的な風景を描いた画家が、
時空を超えて、また同じ風景の窓を開けたかのようで、
いつまでも見慣れることのできない、あの風景がよみがえってきて、
ちょっと不気味だけれど、なんだか清々しいような、そんな気分になりました。


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コメント

  1. satoru | URL | -

    Re: 時空を超えて、晴れやか

    こんにちは。

    美術に疎いので、キリコのことは、名前を聞いたことがある…ぐらいしかわかりません。絵を見ていると、いわゆる錯視とは違う、それでいて錯視的な感覚。
    シャツのボタンがひとつずれているのに気付いてない…というようなザワザワした感じです。その原因を求めて、あぁ、ここの遠近感が違うんだ…なんてほっとしたのも束の間、絵全体からの印象はやっぱりどこかしっくり来てないものが残ってます。そんな見方はしないほうがよさそうなんですが、ぐるぐる回ります。

    紹介、感謝!

  2. 黒犬(管理者) | URL | -

    Re: 時空を超えて、晴れやか

    >satoruさん
    シャツのボタンがひとつずれているのに気づいていない感じ、すごく的確な表現ですね。
    自分が当たり前だと思っていることが、実はそうじゃないんじゃないかとか、実は自分だけ騙されているんじゃないかとか、そういう不気味な雰囲気がありますよね。
    でも、絵が醸し出すそんな空想や妄想が、逆に、型にはまった生活のなかで、ふっとひと息つかせてくれるような気もします。

  3. ホーピーズ | URL | -

    Re: 時空を超えて、晴れやか

    「形而上学的絵画」というと随分と難しい響きがあり、一歩引いてしまいがちですが、
    「現実は皆が思っている程型にはまっていないよ」という解説を聞き、なる程と納得しました。
    確かに日常生活と言うのは型にはまった単調なもと思いがちですが、現実というのは
    キリコの絵のように不思議な世界であるという前提をもてば、ずいぶんと気が楽になるような気がします。

    いつも日本では触れる事ができない話題をありがとう。
    次を楽しみにしています。

  4. 黒犬(管理者) | URL | -

    Re: 時空を超えて、晴れやか

    >ホーピーズさん
    たしかに、「形而上学的絵画」なんて、小難しそうですよね。
    でも、この呼び方は、当の本人にしてみたら、おそらくちょっとした冗談のようなものだったのでしょう。
    でもそのちょっとした冗談に、一人の画家が、一生をかけて、何枚も何枚も絵を重ねて、ある意味では大真面目に取り組んだことに、すごく感動してしまいます。

  5. ヴュ | URL | -

    Re: 時空を超えて、晴れやか

    デ・キリコ展、羨ましすぎます。
    《ユリシーズの帰還》、面白いですね。確かに、移動感ゼロなのにあっけらかん。天井から水ごとボチャーンと落ちてきて「ただいま」、みたいな感じ。

    そういえば、昨年イタリアの某街で真夏の昼下がりに歩いていたら、真っ青な空と強烈な影と誰もいない街角に、ふとデ・キリコの世界を見たような錯覚を覚えました。「形而上学的絵画」なんていっても、意外にその変の何でもない景色に創作の源泉があったりして、と思った新鮮な体験でした。

  6. 黒犬(管理者) | URL | -

    Re: 時空を超えて、晴れやか

    >ヴュさん
    たしかに、デ・キリコの絵には、ローマやギリシアといった、地中海世界への憧憬が感じられます。
    それはもしかしたら、近代以降、人が「人間中心」的世界を作り上げる以前の、その意味では始原的な世界の風景なのかもしれません。
    そんな世界を、いわゆる「自然」を押し出すことなく、実に「不自然」に描くあたり、面白い画家だと思います。

  7. Dowland | URL | Rfe1qgRA

    Re: 時空を超えて、晴れやか

    黒犬氏が引用する「大地の上、太陽の下を歩く人間のの中には、古今のいかなる宗教よりも、もっと多くのがある」との言葉は、デ・キリコを解き明かす一つの重要な鍵と思われます。

    この5月に出版された『シュルレアリスム絵画と日本』(速水豊著、NHK books)では、戦前の日本の画家に彼が与えた影響への言及があり、例えば、飯田操朗の『アトリエ』(1933)において「デ・キリコからの影響を考える上でより重要なのはの扱いである」として、彼の『預言者(1915)』等が取り上げられています。

    ただ、デ・キリコといっても、未来派のように直接的ではないにせよイタリア・ファシズムとの絡みで何となく胡散臭さを感じ、ほんの数点しか知りませんでした。ブログにあるような「紆余曲折し」た人生行路を辿った画家だったとは露知らず、こちらの蒙を啓いてくれた黒犬氏に感謝いたします。

    ところで、ファシズムとの関係では、つとに評論家・多木浩二氏が論考「キリコの宿命―ファシズムと芸術」において、彼の『ある一日の謎(1914)に触れつつ、「「形而上絵画」のもつイメージの新しさ、シュルレアリストを鼓舞したあの神話性は、決してファシズムのものではないが、そこにあるめいたものへの問い、エクスタシーという芸術的経験の仕組みなどは、ファシズムなる芸術化された政治とどこかで交わりあうのではないか」と論じているところです(『比喩としての世界』〔青土社、1988〕所収)。

    もしかしたらこうした見解は、『政治の美学』(田中純著、東大出版会、2008.12)における分析にも繋がっていくのではないか、とも思われます。
    同書においては、「審美主義的芸術の逆説的な論理―芸術を高めるために生から離脱しようとする審美主義が、それによってもたらされる不安から一挙に反転して政治化する―を「ファシズムの美学」の主軸の一つとして捉えることができよう」として、1970年代の西欧における文化的な潮流の中に見い出される「ファシズムの美学」が分析され、例えば、「政治を芸術作品としてかたちづくろうとする「審美的政治」の伝統に、ロック・スターのデヴィッド・ボウイもまた所属していた」等と述べられています。

    「パリでの展覧会は、意外なことに、25年ぶり」とのことですが、あるいはこれが切っ掛けとなって、デ・キリコが様々に取り上げられるようになるのではないでしょうか?
    v-269

  8. 黒犬(管理者) | URL | -

    Re: 時空を超えて、晴れやか

    >Dowlandさん
    なるほど。美術館という場所は、その絵画が置かれていた政治的な状況を、良くも悪くもカッコに入れてしまうようですが、ご指摘の通り、とりわけデ・キリコも属しているシュルレアリスムの流れには、ファシズムの台頭という時代状況が色濃く反映しているように思います。
    20世紀の文化が、世界戦争という総動員的な現象と密接な関係にあることは、おそらく否定できないでしょう。
    しかし同時に、芸術家たちは、ファシズムがきな臭くしてしまったある感情を、別の仕方で救い出そうとしていたとも言えるのかもしれません。たとえ、デ・キリコの古代讃美に、イタリア・ナショナリズムと重なり合う部分があるとしても、あるいは前者が後者を補強するような関係にあったとしても、彼が描いた絵そのものは、どこか別の場所の窓を開いているように思えます。

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