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ピカソとマネ

2008年12月15日 16:02

picaso2.jpg

オルセー美術館で、「ピカソ/マネ―『草上の昼食』―」という企画展を観てきました。

この企画展は、「ピカソと巨匠たち(Picasso et les maîtres anciens)」という、グラン・パレで行われている一大イベントの一環として行われています。
グラン・パレでは、ゴヤの『裸のマハ』(プラド美術館所蔵)をはじめとして、ピカソに影響を与えた画家たちの作品とピカソの作品を並べて展示しているそうで、「奇跡的な展覧会」とまで言われています。要チェック。
詳しくはこちら→フランス大使館のページ

さて、オルセーでは、マネの作品『草上の昼食』と、そこからインスピレーションを得て描かれたピカソの作品数十点が並べて飾られていました。
規模としては、こちらの企画展にしては小さい方ですが、一枚の絵画から、画家がどのように刺激を受け、それをどのように作品に昇華していくのか、生々しいドキュメントを観るようで、かなり濃密な印象を観る者に残します。

上に挙げた絵は、ピカソの作品のひとつです。
もとになったマネの作品(下の絵:Wikipedia)と比べると、流石というか、いかにも、というか、「ピカソ節」炸裂ですね。

769px-Edouard_Manet_024.jpg

マネの絵は、19世紀中頃に描かれたもので、1863年のサロン(Salon de Paris:パリの芸術アカデミーの公式展覧会)に出品されたものの、あからさまな裸体描写などが非難の的となり、落選したものの、印象派以降の、サロンの外で前衛的な芸術を展開していく潮流の先駆けとなった作品です。

たしかに、それまでの絵画にも女性の裸体(ヌード)は描かれてきましたが、それらが、歴史的な事件や神話的な出来事の表現というオブラートに包まれていたのに対して、この作品の中でこちらをじっと見つめている女性の裸体は、そんな意味を一切感じさせない、「あからさまな」ものです。
それだけでなく、空間描写という点でも、とくに一番奥で水浴びしている女性が、非常に明るく描かれているせいで、画面全体に、奥行きを感じさせない、あっけらかんとした印象を与えています。
その裏に読み取るべき意味もなく、その奥に広がる現実の世界の深さも感じさせない、そんなマネの画風は、「何かについての絵画」ではなく「絵画そのもの」を目指して展開された、20世紀の芸術運動の偉大なる先触れとなったのでした。

この絵画史上有名なスキャンダルからほぼ百年後、ピカソの行った解釈は、あっけらかんとしたマネの絵から、さらに意味や奥行きをはぎ取り、それぞれのオブジェがそれと同定できるぎりぎりのところまで形態を崩し、僕らが持っている「人間はこんな形」とか「木はこんな形」などの常識的な見方を解体するパワーを持っています。そうすることで、ピカソは、マネが描いた風景そのものに、マネとはちがった画面を通して接近させようとしているのかもしれません。

そうやって突きつけられた風景は、なにか小難しい理屈っぽいものではなく、そこからまた別の表現が無限に生まれてきそうな、そういった意味では非常に「原始的」なものに見えます。
ピカソも、マネの絵を見てそう感じたのでしょうか、非常に多くの作品(絵画26点、デッサン140点、版画、陶器、彫刻、段ボールの紙人形等々)を作りだしました。
それらのひとつひとつがオリジナルで、非常に魅力的な作品が、マネの『草上の昼食』を中心に置いて放射状に並べられていて、あたかも先ほど述べた「原始的な風景」の中に迷い込んだかのような幸福な錯覚に陥りそうになります。

なかでも面白かったのが、この風景の登場人物たちを、段ボールに切り抜いて、それを二、三回折り曲げ、自立できるようにしたオブジェが数点展示されていて、それらがちょうど日本の「紙相撲」のように見えたことです(ピカソはこの遊びを知っていたのでしょうか?)。
こうやってアートと遊びをぐいっと結び付けてしまう感じ、オブジェを鷲づかみにしているのに、それでいて繊細さを失っていない感じが、なんとも格好いいですね。

「ピカソと巨匠たち」ではほかに、ルーブル美術館で、ドラクロワの『アルジェの女たち』についての連作を展示しているそうです。
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コメント

  1. ヴュ | URL | -

    Re: ピカソとマネ

    まず「奇跡」とまで呼ばれる展覧会にプラッと行けてしまう街に住んでることが単純に羨ましい!
    ピカソにマネからのインスピレーションを得た作品群があるとは知らなかったので、非常に興味深く読ませてもらいました。
    上の絵は、ピカソの創作でいうといつ頃の作品?

  2. sima | URL | -

    Re: ピカソとマネ

    こんにちは!
    いやぁ、すごい企画ですねぇ。欧州という"エリア"を感じずにはいられません。
    ご紹介いただいたピカソの絵、すごいですね。比較するべきものではないですけど、先日みた琳派と呼ばれる人たちがモチーフにした「風神雷神図」を思い出しちゃいました。ピカソには、それとは違う"力"を感じちゃいます。

    サッカーに絵画に、これからも楽しみにしてます(^_^)

  3. 黒犬(管理者) | URL | -

    Re: ピカソとマネ

    ヴュさん、
    ピカソのこの作品は、1954年から1962年の間に製作されたもののようです。
    彼は1881年に生まれて1973年に亡くなっているから、晩年の作品群と考えてよいでしょう。
    この時期、マネだけでなくゴヤやドラクロワら過去の画家の作品を集中的にアレンジしていたようです。
    じいさんになっても熱いぜ、ピカソ。

  4. 黒犬(管理者) | URL | -

    Re: ピカソとマネ

    simaさん、コメントありがとうございます!
    琳派もそうですが、芸術家たちが同じモチーフでつながっているのを見ると、何か特別な出来事を目の当たりにしているような感じになりますよね。
    ピカソの場合、そこに、技法やテクニックとかを超えて、もはや原始的としか呼べないような「力」を感じてしまいます。

  5. Tarrega | URL | Rfe1qgRA

    ゴダール マネ …

    今年のノーベル文学賞に村上春樹氏が選ばれるかもしれないとの期待が盛り上がった時期に、神戸女学院大教授・内田樹氏は、受賞時の「コメント」予定稿を新聞社から求められたそうで、そのブログ「内田樹の研究室」において更に次のように述べています。
    「私のような門外漢に依頼がくるのは、批評家たちの多くがこの件についてのコメントをいやがるから」だが、なかでも蓮實重彦氏は、村上文学を「読んでいい気分になっている読者は「詐欺」にかかっている、というきびしい評価を下してきた。/その見識に自信があり、発言に責任を取る気があるなら、授賞に際しては、「スウェーデン・アカデミーもまた詐欺に騙された。どいつもこいつもバカばかりである」ときっぱりコメントするのが筋目というものだろう。私は、蓮實がそうしたら、その気概に深い敬意を示す」(10月9日)。

    こう言われたところで、東大総長まで上り詰めて退官した後ですから、さすがの蓮實氏も受け流すのではと思っていましたら、雑誌『新潮』の新年号に同氏の「随想」なるものが掲載され、その中で内田氏を、ノーベル賞の「受賞によって、「村上文学の世界性」が証明されるなどと、本気で思っている大学の教師がいるのだろうか。やれやれ」などと厳しく批判しています。

    やはり、まだ蓮實氏から俗臭は抜けておらず面白い運びになったな、と思いつつ書店を覗いてみましたら、なんと出版されたばかりの同氏の『ゴダール マネ フーコー/思考と感性とをめぐる断片的な考察』(NTT出版)が目に留まりました!
    早速手にとって開いてみると、タイトルにある「思考と感性とをめぐる断片的な考察」が始まるのは、「ジャン=リュック・ゴダール、ミッシェル・フーコー、そしておそらくはその背後にジョルジュ・バタイユ。この三つの名前がエドワール・マネによって不意に結ばれるのを目にするとき」から、とされています。

    そこから展開される相変わらずの鋭い「考察」自体は手に余るのでここではさておき、「不意に結ばれる」とはどのような事態なのかと言えば、『映画史』の「3A」篇「絶対の貨幣」で、「ゴダールは、いつものあっけらかんとした気取りのなさで、マネとともに近代絵画は生誕したとつぶやいてから、近代絵画、すなわち映画が生誕したのだといいそえる」のであり、また「ゴダールの単調なモノロ-グは、…「私は手に、一冊の書物を持っていた。ジョルジュ・バタイユの『マネ』だ」とその声は言う」と、蓮實氏は述べています。
    加えて、フーコーにあっては、講演録の『マネの絵画』が死後に出版されているところ、さらに蓮實氏は、「フーコーによる名高いコレージュ・ド・フランスの開講講義の末尾の部分」が、『映画史』の「4B」篇「微(しるし)は至る所に」の冒頭近くで引用されていると指摘しています。

    こうしたマネを巡る繋がりの輪の中にピカソを入れ込むのは簡単でしょう。すでに黒犬氏のブログで触れられているように、ピカソにはマネの「草上の朝食」からインスピレーションを得て描かれた作品が数十点もあるのですし、またバタイユとピカソとの親交もよく知られています。
    あるいは次のような点も挙げられるでしょう。すなわち、ピカソはベラスケスの「ラス・メニーナス」を題材に連作を制作しており(在日フランス大使館のHPによれば、グランパレで開催中の展覧会で展示)、他方でフーコーの『言葉と物』は、周知のようにまさにその絵を巡る分析から始まります。

    ところで、冒頭で触れた内田氏はフランス思想を専門としますから、ここら辺りはさぞかし自家薬籠中の物となっているでしょうし、さらに、そのブログでは、「パリ滞在の終わりの頃、フランスとフランス人に心底うんざりした頃に、私はオランジュリーとピカソ美術館を訪れて、「睡蓮」と「山羊」を見て、「これがあるなら、パリも悪くないな」という印象を最後に自らに与えることを習慣としているのである」(本年9月12日)などと述べています。となると、この話はモネまでも巻き込むことになるのでしょうか?v-269

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